なかなか厳しい現実
⭐️ここで言っておきたいのですが、人それぞれという事です。みんな違う形でものになっていくので、その事を念頭に入れておいてください。
⭐️私の場合、初めての売り込みで「グラマー」という雑誌から仕事が入るようになっていました。ニューヨークのトップモデル、ヘアメイクの人たち、大きなロケバス、などなどどれを取っても夢のような環境でした。自分がボスです、どこに行ってどこで撮影をしても構いません。マイ月の撮影がどれほど待ち遠しかったか。マンハッタンの隅々まで行きました。
ただ、しばらくたってもどうしてもメインのページを撮らせてもらう事はできませんでした。私の撮った写真はいつもモノクロの写真に変換されて、小さく配置されていました。悔しかったですね。
どうしたら大きなページが撮れるのか、自分には分かりませんでした。要するにアートディレクターの考え一つで全てが決まっているという事です。ニューヨークの有名雑誌は有名なカメラマンがいくつもの雑誌を掛け持ちするという現実になっています。よって若手が入り込むチャンスはますます少ないという事です。普通の事をやっていたのではこの壁を乗り切る事はできないのではないかと思うようになってきたのです。
以前にも書きましたがニューヨークでは有名雑誌は広告への登竜門です。有名雑誌のメインのページを撮れなくては大きな広告は撮れません。その現実に徐々に気付いていく毎日だったのです。
私は生活のためになんでも撮影していましたが、全てはスタジオの家賃に消えていくというような生活でした。このままではいけないと分かっていてもどうしようもない自分がそこにありました。
⭐️しばらくすると、頼みの綱だったそのファッション雑誌からも仕事がこなくなりました。このニューヨークは本当に怖いところです。カメラマンは無限に存在します。私のやっていた仕事を補充するカメラマンなんて掃いて捨てるほどいるという事です。カメラマンは使ってもらってなんぼの世界です。使われなければ一文にもなりません。
雑誌のアートディレクターが誰を使おうと自由です。もちろんある程度の実績は必要ですが、実権を握っているアートディレクターに気に入られる以外に生きていく事はできないのです。その現実にようやく気付きました。
⭐️私はその後1年ほど食うためにいろいろな事をしました。依頼を受ける仕事はとても少なく、生活を維持できるものではありませんでした。そこで、ある小さな広告会社の専属カメラマンのような形をとり、商品撮影を四六時中撮っていました。スタジオは商品で埋まってしまいファッションスタジオの面影はありませんでした。
私の知り合ったあの有名イラストレーターが仕事の世話をしてくれた事もありました。時にはアダルト系の写真を撮った事もありました。写真以外にも日本人相手の観光ガイドをしたりもしました。ただただ生きるために必死でした。
⭐️ただ、ある時あることに気づくのです。社会のせいにするべきではないという事です。アートディレクターに気にいられるようになるには自分を変える以外にないと気付いたのです。ニューヨークは世界のトップが集まってきます。そこでみんなをうならせる何かを習得する以外にないのです。少なくともそれにかけてみる以外に道はないという事です。
そこで私は大きな決心をする事になります。