現状の打開をどうするか?
⭐️これは当時私の永遠のテーマでした。写真家は基本フリーランスですし、仕事がなければただの人間です。自分は優秀な写真家だと言っても、認められなくては意味がありません。仕事をしているものが勝者なのです。
その観点でいくと、当時の自分の置かれている立場は実に微妙でした。当時私は Pratt の大学院を卒業し、永住権に申請していました。その関係で一旦アメリカを出ると帰ってこれるか分かりませんでした。ただ、永住権はおかしなもので基本外国でも申請できます。そのプロセスは実に多岐にわたっていて複雑です。ここではその詳細については述べませんが、当時私は取得の最終段階に入っていました。
Prattを卒業して1年のトレーニングビザを取得し、その間に永住権にも申請したわけです。トレーニングビザが終わるまでに永住権を取得するのが目標でした。永住権の取得に関してのエピソードを語れば軽く数十の記事が書けるでしょう。それだけ複雑なのですが、いくつもの問題を解決しながら、やっとの事で最終段階に入っていたのです。
最終面接はおかしなもので自分の母国で行われます。私の場合は日本の神戸です。私は日本に帰り、神戸のアメリカ総領事館で面接を受けました。面接の最後には宣誓をするんですね。右手を上げて。これには感動しました。
アメリカで永住権を取るということはアメリカ人になるのとほとんど違いはありません。それほどの意味合いがあるのです。永住権でできないのは選挙ぐらいでしょうか。他にもありますが、国籍を持つのとそれほど差はありません。その権利がやっとの事で取れたのです。
⭐️今のレベルでわずかな可能性を期待してこのニューヨークでやっていくのか、その他の選択肢があるのか、私は毎日悩んでいました。
ニューヨークを離れる決心
⭐️私はニューヨークが本当に好きでした。アメリカが大好きでした。ただ、ファッション写真家としてやっていく上でヨーロッパでの修行は避けては通れない道であるような気がしていたのです。
ニューヨークに住んで5年ほどでしょうか、すっかりニューヨーカーと化した自分だったので、ヨーロッパにいく決心がなかなかできなかったのです。でも、このままここにいても大きな仕事をもらえる可能性が限りなく小さいということは十分にわかっていたのです。
⭐️私は永住権に申請していた関係で父の葬式にもいくことができませんでした。いろいろなことがあったニューヨーク。セントパトリック教会にいつものように行き、信者でもないのに椅子に座りステンドグラスの上の方を見つめ数時間を過ごしたのです。父も何か見守ってくれているような気がしました。
そこで私は一旦ニューヨークを離れる決心をしたのです。大きくなって帰ってこようとその時は思っていました。
離れるのも大変
決心をした後は自分の行動は早かったです。スタジオを出なくてはいけないので、やらなければいけないことは山とありました。他主との交渉、機材の処分、私物の処理、クライアントへの挨拶、などなどやらなければならないことは無限にあったのです。
どれぐらい時間がかかったでしょうか、数ヶ月のうちに私はヨーロッパに移る準備を全てやり遂げたのです。